召命

渡邊朱倫
2020 年 12 月 6 日

この故に兄弟よ、ますます勵みて汝らの召されたること、選ばれたることを堅うせよ。若し此等のことを行はば躓くことなからん。

――ペテロの後の書1:10

キリスト教では、神から人に「召命(希 κλῆσις、羅 vocatio)」が与えられるといわれている。カトリックでは主に聖職者・修道士になる使命を召命というが、プロテスタントでは世俗の職業を全うする使命も召命という。

安直なる誓い

汝神に誓願をかけなば之を還すことを怠るなかれ 神は愚なる者を悦びたまはざるなり 汝はそのかけし誓願を還すべし

誓願をかけてこれを還さざるよりは寧ろ誓願をかけざるは汝に善し

――傳道之書5:4–5

また古への人に「いつはり誓ふなかれ、なんぢの誓は主に果すべし」と云へる事あるを汝ら聞けり。

されど我は汝らに告ぐ、一切ちかふな、天を指して誓ふな、神の御座なればなり。

地を指して誓ふな、神の足臺なればなり。エルサレムを指して誓ふな、大君の都なればなり。

己が頭を指して誓ふな、なんぢ頭髮一筋だに白くし、また黒くし能はねばなり。

ただ然り然り、否否といへ、之に過ぐるは惡より出づるなり。

――マタイ傳福音書5:33–37

さて、幾度か告げている通り、私は子供の頃から職業への志望が無かった。但、小五か小六の頃、腹痛か何かを覚えた時にこう「祈って」しまったことがある――「神様、宣教師になりますからどうか癒してください。」

諸君は私の愚鈍を嘲ってよい。だが私は、抑々一人でも多くの人をキリスト教に入信させ天国へ導くことがキリスト教徒の義務だと、牧師夫人らに教わった。或いは、もし私が医者なり科学者なりプログラマなりを本業としていたとしても、副業で誰かをキリスト教に入信させれば「宣教師」だと考えていた節もある。「舐めている」と非難されて然るべきだろうか。

実際、小学生の私には人を説得させてキリスト教を信じさせる知識や能力がある筈もないし、その後も得られなかった。自分自身をも騙していたのである。

恐れと無智

中学生の頃だったと思う。手城の運河に跳ねる鯔を眺めながら思った――「俺は宣教師にならないまま死んだら、あの時の誓いを破る訳だから、神の怒りに触れて地獄に堕ちるんだろうか。」

父は牧師ではないが、カルヴァンとかカール・バルトとかの神学書を大量に本棚に置いている。積極的に読めば私も宣教師や牧師になれたのだろうか?文章の読解は苦手だった。因みに牧師の説教を聴くのはもっと苦手だ。

岡山時代

後に「自民党の友」として悪名を轟かせる某大学の図書館には何故かカトリック思想史(ヨゼフ・フービー編、戸塚文卿訳)、キリストの教会の歴史(ヨハネス・ラウレス著)が置いてあった。第二バチカン公会議以前の書ということもあって、プロテスタントへの批判もある。一方同図書館にはクルアーンもあったし、神は妄想である(リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳)もあった。

ウェブでも諸々の宗教批判を調べた。ピオ十世会の司祭はエキュメニズムを批判しているし、東方正教会はプロテスタントの「聖書のみが信仰の源泉」なる原理を拒否している。

いつだったかには実家から宣教師入門(奥山実著)をアパートに持ってきて読んだが、キリスト教が益々分からなくなった気がした。いずれ書評を綴ろうかと思う。大学を辞めた後、一度母に T 教会へ連れられて奥山本人に頭に手を載せて祈られたことはあるが、私の信仰の火はとうに消えていた。

召命は与えられるか

私は癇癪持ちだ。岡山で精神科医に発達障碍と診断され、今までに精神病棟に 7 回入院している。聖職や俗職が召命ならば、精神病棟の患者に召命は有り得るだろうか。

イエスが生まれた時、ヘロデ大王はベツレヘムの幼児を虐殺したと伝えられている(マタイ伝 2:16)。カトリックや正教では殺された幼児らを聖人扱いしているが、幼児らに召命は与えられただろうか。抑々幼児らは神やイエスを信仰していただろうか。

岡山時代私は必死で「神よ、お導き下さい」云々と祈った心算でいた。しかし学業も、コンビニのアルバイトすら全うできず、今も定職にありついていない。そんな私にとって召命とは何なのか。私は 1 タラント(銀 26 kg)を地に隠し、やがてそれすらも神に取り上げられる輩(マタイ伝 25:28)なのだろうか。それとも「神による召命」なるもの自体が虚偽、と納得して宜しいだろうか。

2020 渡邊朱倫