不共感主義

渡邊朱倫
2020 年 12 月 18 日

私は、感情を共有するよう強いられるのが嫌いだ。抑々感情は共有できないと思う。仮に他者と同じ感情を持ったとしても、それをどうすれば知り得るのだ。

成程、他者の感情を理解することは、善良な大人にとっては徳かも知れない。しかし、例えば苦悩を覚える人がいるからといって、自分も無理して苦悩を「共有」しようとしては、却って彼に無駄な責任を担わせることになる。

感情を共有させた心算になるマスメディア

現代の日本は音楽、アニメーション、スポーツなど、娯楽に満ち溢れている。私も娯楽の甘美には或る程度親しんでいる身分だ。しかし娯楽の甘美を嗜んでいるのは常に個人だ。仮令コンサートや劇場、競技場であっても。

一方、マスメディアの運営者、特に広告屋とかコピーライターとかいった連中は屡々「日本中が涙した」とか「日本中が感動した」とのたまって集団の感情を十把一絡げに扱う。こういう文言に積極的な目的はあるだろうか。私は「騙す」以外の目的を推し測れない。

感情を共有するよう強いる権力

世界的な規模で感情の共有を強いる虚構がオリンピックだ。単にバドミントンやサッカーを競技したり観戦したりするだけなら廃校の校庭でもできる。代々木の競技場を九桁十桁の大金で立て直す必然性は全く無い。

最早多くを語らない。敢えて言えば、果たして森喜朗という御仁は日頃スポーツを嗜んでいるのか?

2020 渡邊朱倫